パチンコ行くにも気がねする仕事やからね。

 葬儀屋、はじめました。⑤

葬儀屋だったジイチャンのこと

 

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語る人=水野昭仁(さくらセレモニー代表)
インタビュー・文=朝山実
写真撮影©山本倫子yamamoto noriko
ふろくマンガ©KUM

前回を読む☞旅館選びと似ている、お葬式事情? - 葬儀屋、はじめました。



「ジイちゃんは、下半身不随の障害があって、ボクが物心ついた頃には車椅子生活になっていたんです。でも、ボクがまだ1歳くらいのときの写真にはふつうに立って写っていたから、2歳とか3歳のときにそうなったんちゃうかなぁと思うんです。詳しくは聞いてないんですが、病気だったと思います。
 クルマを運転するのもね、障害者用に改造したのに乗っていました。足でブレーキとか踏めないから、手動式の。それでも、警察から『無事故無違反』の賞状をもらったりしていましたよ。70歳くらいまで乗っていたんじゃなかったかな」

 ミズノさんの母方のお祖父さんは葬儀屋を営んでいたそうだ。「うちの仕事を継がへんか?」と聞かれたのは、彼が二十歳になるかならないかの頃だったという。ちなみに冒頭のスナップ写真は、ミズノさんが営む葬儀会館を見学した際のもの。白木の祭壇の飾りについて記者が質問すると、指をさして説明。ふだん祭壇を扱う仕事では白い手袋を着用されています。

「当時も、24時間365日休みなしの仕事でしょう。嫌や言うたんです。
 それまでにもね、仕事は目にしていました。たまに手伝いに行ったりはしていたんですよ。昔の町の葬儀社は社長ひとりでやっているところが多くて、葬儀が入ると献茶さん(参列者にお茶をだすなどの手伝いをするスタッフ)だとか、そのつど各部門の人を集めていたんです。当時は、仕事のあるときに来てもらう人たちのことを『あんこさん』と呼んでましたね。

 どういう字? ……ボクもよう知らんのですけど、いまの派遣会社の葬儀部門みたいなのがあって、お葬式があると来てもらう。そういう手伝いの人に(ジイちゃんが)仕事の指示をしたり、葬儀の司会とかしたりするのを目にしていました。
 いまだと葬儀の『司会』は女性がすることが多いんですが、昔は男のひとがやっていたんですよ。
 葬儀の仕事はジイちゃんもバアちゃんとでやっていましたね。あとは、外注で頼んで。そうそう、ジイちゃんは母方の爺ちゃんなんです。ふたりとも出身が山形で、郷里の名前を屋号につけてやっていましたね」

──お祖父さんはずっと葬儀屋さんだったんですか?

「いや、違います。もともとは何やっとったんかなぁ。兵隊に行って帰ってきて、タクシー乗ったり、トラック乗ったりしていたんですよね。それで、知り合いから『ええ商売あんでぇ』『なんや?』って紹介してもらい、大阪の大きな葬儀社で修行して、そこから独立したんやと思うんです」

──ということは、葬儀の仕事を始められたのは戦後になってから?

「そうです、そうです。うちのオカンが『学校で、葬儀屋の娘やと言うては、ようイジメられた』というてました。すごい嫌やったって。なんやこうやって話しているといろいろ思い出してきますね」

──お爺さんは大正生まれですか? それだとウチの父と同じくらいの世代なのかなぁ。

「そんなもんやと思います。もう亡くなっていますけど」

──それで、葬儀屋を継がないかという話になったのは何がきっかけで?

「ジイちゃんの子供が、女・男・女で、長女がうちのオカンになるんやけど。長男はクルマの塗装板金の仕事に就いて、(葬儀の)仕事は継がんかった。それで、うちの親父に声がかかったんです。『どうしょう……』言いながら結局、親父も継がずに、左官屋から建築会社に働きにいったんです。当時は景気もよかったからなんでしょうね。
 ジイちゃんとしたら、葬儀の道具も揃っていたし、地域で名前も通っていたから『もったいない。誰かいてへんかぁ』とボクに声がかかったんですよ。『食いっぱぐれはないでぇ』って(笑)」

──でも、そのときはミズノさんも断ったんですね。

「まあ、いまでこそね、ええ仕事やなぁと思うんですけど。やってみないとこの仕事のよさって、わからへんからね。正直、その頃はボク自身、アカンやつやったしね。ククッ(笑)。断って職人のほうにいったんですよ」

 ミズノさんのお祖父さんは身内に継いでもらうのは断念。仕事でつながりのあった花屋さんに、道具など一切合財を譲り渡して、隠居したそうだ。

──道具というのは、祭壇とかですか?

「そうです。あとは、提灯とか。昔の葬儀屋なんで、外周りの、式場の周りに張る白と黒の『鯨幕』とか全部自前で持っていたんですよ」

──ワタシのお葬式の記憶だと、母のとき30年前になりますが、灯篭とか祭壇の前にミニチュアの庭みたいにして水を流す「水車」とかありましたね。

「そうそう、そういうの。すごい道具の量だったんですよ。提灯もね、大きな家紋が入った、家ごとに違う家紋を一通り揃えていました。

 提灯だけでも、すごい量で。いまだと家紋はシールで張り替えるんですけど、昔はそういうのはなくて、家紋の提灯だけで、20も30もあったんです。ジイちゃんの家は二階建てやったんですけど、一階は倉庫にしていて、仕事の道具で一杯になっていましたね。
 それでね、昔の葬儀屋は何でも一つひとつ、筆で書くんですよ。『銘記』といって、通夜は何時、告別式は何時、と白木に墨で書く。そういうのも全部ジイちゃんがやっていました。

 達筆でしたよ。字の上手い下手で、お金がとれたり、とられへんかったりするんで、もう一字一字疎かにはできへんのです」

──文字のよしあしが大事?

「そうです。それで、式が終わったら使った白木を鉋で削るんです」

──再利用するんですか?

「そうです、そうです。これがまた手間で。いまやったら、カッティングシートで、ペタッと張り替えたらしまいなんですけど。ほかにも、ご自宅でお葬式をする際には、畳の上に『もめん(木綿)』いうてね、白い布を敷くんですよ」

──畳に白い布……?

「記憶ないですか? 畳の上に白い布をピンと張るんですけど。なんでそうするのか? それは畳を汚したり、傷めたりしないため。もうひとつには、畳のままだと(気が急いているとヘリに)足がひっかかってコケたりするんですよ。手間といえば手間なんですけどね。
 ご自宅で葬儀じたいが減ってからは、もめんを張る機会も少なくなりました。まれにご自宅でのお葬式となった場合も、ご説明して『どうしましょう?』とお尋ねしますが、『たいそうやし、そのぶん別料金になるんやったらエエわ』と言われますね。でも、昔の葬儀屋さんは、そういうふう施行の技術をいろいろもっていて、葬儀は高いと言われたりしますが、細かな手間賃
みたいなものも入ってのことだったんですよね。
 たとえば外の飾りで『しきび(しきみ、ともいう)』ってあったでしょう。式場の入り口まで、道の両側に一対ずつ並べて、故人の関係者の名前が書いてある(関西に見られる風習で、関東だと花輪にあたる)。あの札もね、全部筆で書いていましたから。それがふつうだったんです」


──記憶にあるお葬式というと実家が田舎だったせいか、近所の女の人の手伝いも含め、大勢の人手がかかわっていたという印象がありますが、葬儀屋さんも舞台裏でやることが多かったんですね。

「ぜんぶ外注ですけどね。花屋さん、献茶さん、道具を運んだりするアンコさん、一回の葬儀に10人くらいは来ていましたよね」

──それで話を戻しますと、お祖父さんは何歳くらいまで働いておられたんですか?

「うーん。70くらいやったと思うんですけどね。亡くなったのは76やったかな。辞める前まで、クルマ乗って仕事してましたからね」

──葬儀屋さんといえば、ワタシの子供の頃は、死にまつわる仕事だから避けるというか、忌避の目でみるところがありましたが、いま現場で働いているひとたちの意識はどうなんですか?

「うーん、ボクは公表していますから。タブーみたいな意識はないです。自分に合った、いい仕事だと思っています。ただ、そのあたりの話になると人それぞれで。隠しているのもいますよ、家の近所の人に仕事のことは。子供がいて、それも中学校くらいだと、隠すというよりも、わざわざ言わなくてもエエやろうという感じかな。
 ボクが葬儀屋を (就職した御遺体搬送会社から)独立してしようと思ったのは、下請けでやっていたときに、なんかおかしいんちゃうかと思うことが多かったからなんです。
 霊柩車の会社に勤めていたときに、町の葬儀屋さんの依頼で走っていくやないですか。そこの葬儀屋さんが、仏さんを物扱いするのを見るとね。お客さんの前では腰低く応対していたのが、姿が見えなくなったら、ガラッと口調も変えてくるんです。言うたら、おカネが出るところはちゃんとする。でも、ないところは手を抜くというのかなぁ。
 そういうのを目にすると、ちゃうんちゃうかって。お金のあるなしで態度や仕事の仕方を変えるのは。そう思っても、まだボクもサラリーマンやから、そういうところの仕事も行かないといけないやないですか。独立してやっていきたいと思ったのは、そういうこともあってなんですよ。

 独立してやるまでは、いい仕事というよりは、これは誰かがやらんといかん仕事というのはつよかったですよね」

──以前、ミズノさんの会社の若い社員さんに話を聞いたら、「タブー? 葬儀の仕事に対して特別な意識はないです」というのを聞いて、どちらかというと口調や物腰もさばさばとしていて、時代は変わってきたのかなぁと思ったんです。

「子供がおるかどうかにもよるンかもしれない。いまでこそ、(仕事にまつわる)偏見みたいなものは少なくなってきているものの、あえて言わなくともいいんやったら言わないでいいという感じじゃないかなぁ。というか、ふだん会社でそういう話はしたことがなんで、はっきりしたことは言えないんだけど、やっぱり子供があるなしで違うんやないかな」

──ワタシの子供時代は高度成長期の頃で、クラスに葬儀屋の子がいたけど、親の仕事を紹介するという小学校の授業のときに、もごもごして話したがらなかったのが印象に残っています。先生も気をつかったのか、すぐに次の子に話をふっていた。大人たちはというと、もっと露骨に会話の中で、あそこはどうだこうだと上下意識で低く見るところがあった記憶があり、嫌でしたね。

 それが、最近はネットでお葬式を斡旋する会社を見かけるようになり、スタッフはみんな若く、サイトのデザインなんかも洒落た不動産販売会社のものと似ていて、スーツ姿で顔写真を並べてある。そういうのを目にすると、葬儀に対するイメージも様変わりしつつあるのかなぁという思いがあるんですが。

「うーん、どう言ったらいいかなぁ……。そういう偏見みたいなものがまったくなくなったとは思わないけど、アサヤマさんが昔感じたようなことは、いまはかなり薄らいできているんやないかな。たとえば昔、パチンコ屋の従業員に対する偏見ってあったでしょう。だけど、いまは大手は新卒で大学出てないと採らへんかったりするからね。そんなんと一緒ちがうかな。でも、お陰でね、逆にいまはボクらはやりにくくなったところもあるんですよ」

──というと?

「この仕事は、ひとに見られる仕事なんですよね。日ごろから行儀よくおらんといかんから、シンドイんですよ。たとえば上着のボタンをはずして外を歩いてたり、明るめの服を着て歩いていたりするというのは出来ないんです。必ず何か言われますから」

──仕事が終わって寛ごうとしていても気は抜けないということ? 学校の先生とか警察官みたいな。

「そうです、そうです。ひとを見送る仕事ですからね。なんて言うのかなぁ、自分を律していないといけないというのはありますよ。
 そういう意味でのストレスといえば、パチンコにすら行かれヘンから。客さんと会ったりするでしょう。『ミズノさん、パチンコするや?』と言われますから(笑)。喫茶店に行っても『ミズノさん、喫茶店に行くんですねぇ』って」

──葬儀屋さんもコーヒーくらい飲むよね(笑)。

「だから、365日、行儀よくしてないといけない仕事なんですよ」

──それはミズノさんだけではなく、社員にもそういう意識は伝わっているの?

「ボクはこまかくは言わないですけど、そういうのは感じていると思いますよ。ボクらを見る世の中の目。ひどい言い方をすれば、『ひとの不幸で、メシ食っているんやろう』というのはあるでしょう。こないだもね、たこ焼き買いに行ったら『服、変わったんですか?』って。ちょうど事務所を移転する作業をしていて。ふだんは黒のスーツなんです。ホームセンターとかに買い物にいくのもスーツだったりするんですよ。だから作業着というのが珍しかったんでしょうけど。
 制服はもうひとつ別に、社内にいるときは社名の入ったジャンバーを着用しているんですが、そっちは式場の準備とかするときのもので。その日は、たまたま作業服だったので『いや、きょうは引越しの……』と説明をするんですけど、ほかの仕事やとイチイチそんなん聞いたりせんでしょう(笑)」

──そうか、ワタシなんかの職業だと、逆にネクタイを締めたりしたら「なんかあるの?」と聞かれるのにちかいんでしょうね。

「まあ、月に一件か二件でゴハン食べれている商売というふうに思われていますからね」

 気楽な稼業だと思われているのだろう、とミズノさんはククッと小さく笑う。どんな仕事もそうだろうけど、外から眺めているとちがう、聞いてみて知る奥行きがある。次回は従来の「密葬」を最近では「家族葬」、「直葬」を「火葬式」と言う変えるようになったコトバの変遷などを聞いてみることにする。


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